「よいお年を」は“good bye”的である、というおはなし

この時期になると、もっぱら別れの挨拶は「よいお年を」となる。
「よいお年を」は、おそらく「よいお年をお迎えください」の省略であろう。小学生くらいの幼い時分は、何となくこのての時候の挨拶は無理矢理大人ぶっているようで、照れ臭くて口にできなかったのだが、もはや照れる歳でもない。

ところで年末以外の別れの挨拶はもっぱら「さようなら」である。「さようなら」という言葉、語源はそのまま「左様ならば」であり、「そのようであれば(あなたがもう帰らねばならないのならば)、この辺で別れましょう」という意味だ、という話を聞いたことがある。
これに対し、英語の“good bye”は元々“god by with you(古語ではye) ”であり、「神があなたと共にありますよう」と相手の幸せを祈ったものが語源だ。
どちらも美しい言葉だと思うが、私はその一瞬の別れをあくまで自分を主語として惜しむ、日本の別れの感覚の方が好みである。「さようなら」に「私はあなたにお別れをいうのが少し寂しいけれど、仕方ないので別れましょう」という意味までを付帯させるのは少し傲慢だけれども、それでも。

さて、どうだろうか。「よいお年を」は少し“good bye”的ではないか。別れ際に相手の多幸を願い、別れる。普段「さようなら」と別れを惜しむ日本語にしては変化球だ。
年末で別れを惜しむ暇もないほど忙しいのか、それとも一年の精算があるこの時期くらいはさっぱりと別れましょう、ということなのか、何にせよ面白い言葉だなぁと思う。

余談だが、大人になると、大きな事故や事件があるわけでもなく、大喧嘩をしたわけでもないのに、ただ、ふとしたかけ違いで「その人と二度と会わない」ということがあり得る、と実感して以来、意識的に「さようなら、またね」と「またね」を付け加えるようにしている。「今日は別れなければいけないけれども、私はあなたとまた会いたいし、会う意志がありますよ」というせめてもの表明と宣誓として。

それでは皆様、よいお年を。またね。