君も免罪符を焼いて丸腰になろう!

「私、人見知りなんで」という先制の宣言が嫌いである。そして、私もまた人見知りである。

初対面、またはそれに等しい場において「自分が人見知りである」ことを相手に表明することは「自分は人見知りなので、あなたと円滑に会話しませんよ」と口に出されているのと同じ意味を持つ、と考えるからである。 人見知りであること自体は構わない。その人が円滑に会話を進める技術を持たない事を責めたいわけではない。それを先手必勝と言わんばかりに、一方的に宣言する姿勢が気に食わないだけである。

 私は、この宣言をする人間を「オフェンス型の人見知り」と呼んでいる。彼らが先手をきって行う「宣言」は紛れもなくオフェンス、攻撃である。「オフェンス型の人見知り」を行う人間は、人見知り宣言を行うことで一方的に自分がとる行動の了承を取り付けている、というのが私が彼らを嫌う一番大きな理由だ。自分が取る行動、とはすなわち相手に気を使って能動的に会話を繋げようとしないことである。つまり、先手を打って行われる人見知り宣言には「人見知りの自分はあなたを気遣って会話しようとしたりはしませんよ」という意味を見てしまうのである。先にその宣言をされることで、宣言を受けた方は半強制的に人見知りである相手を気遣ってその後の会話を続けることになる。一方、宣言を終えた側は相手が自分のペースに合わせてくれるようになり、気楽なものである。

 厳しい言葉で糾弾するようだが、これは甘えである。「人見知りだけどストレスを感じて会話したくない私を許容しなさいよ」と強制されているように感じるのだ。人見知り先制宣言とは「気を遣わないこと」を責められないための免罪符なのではないだろうか。

 私も本来は人見知りである。と、いうより初対面の場などで自ら口火をきったり積極的に話しかけていくことに戸惑いを覚えない人の方が多数であると思う。しかし「私人見知りなんですよ」という宣言はせず、できればその人見知りすらなるべく隠して接しようと思い、言葉を続ける。そこに「私人見知りなんです」と宣言されてしまうと、何というか少し悲しいのである。

 あなたが人見知りでも構わない。慣れていない場で、うまく会話が続かなくても黙り込みがちになったって構わないと思う。ただ、この免罪符を使われると何とも言えず虚しい気分になる。私はあなたが人見知りであることを責めない。だから、免罪符はもう焼いてみませんか。