幾分かの割りきれないもの、或いはその周辺

 コーヒーショップで席を立つ際、引いてあった椅子を元の位置に戻す。飲み残しはこちら、プラスチックはあちらで燃えるゴミはそちら、などと書かれた分別に細かく従いゴミを捨てる。私にできる「善」などその程度である。
 勿論、それが「善」だと言い切れる確証があるわけではない。私の後にすぐ、立った席に座る人がいるかもしれない。椅子の位置を整えることは、発生している時給の中での店員の仕事かもしれない。ゴミの分別だって、最後は一緒にまとめられてしまうと言う噂も知っている。

 高校生の時、昼過ぎに授業をさぼって早退し、友人と二人コーヒーショップでうだうだとしていた。その時に上記のような行動を「お前さ、そういうの意識的にやってるけどそれ何?モテたいの?」とニヤニヤしながら聞かれたことがある。彼は更にニタニタとしながら続ける。「オトコウケ?」と。彼の笑いの中に「俺はそういうの気づいているけれど、お前のその行動はサムいですよ」という指摘を見た。

 即時に憤慨はしなかった。気分が落ち込んだわけでもなかったが、それを聞かれたことに何というか一抹のやるせなさのようなものを覚えた。確か、その場は冗談で「意識してやってこんだけ男に受けてなかったら継続する意味って何やねん」みたいなことを返したと思う。言われた言葉より、彼の悪意に満ちた表情に苛立ちはあったが、喧嘩はしなかった。面倒だったのだと思う。時間が経つにつれ、苛立ちは不安に変わっていった。

 それを言った意図はともかくとして、彼の言葉はあながち誤ってはいないのだと思う。それ故、不安に転化したのだとも思う。「善く思われること」を主な目的として為される善行は、一般に「偽善」と言われる。「やらない善よりやる偽善」なんて言葉もあるが、その行為が善かどうかすら自身が判別できないものである以上、その論理も使えない。その行為をする時、懐疑心を抱きながら同時に満足心も抱いている。「善か偽善か」より前に「善かそうでないか」の部分の解決がなされていない。

 それでも私は、やはり椅子を戻すし、分別に従う。「こうするべきだ」と確固たる論拠があるわけではなく、ただ何となく、本当に何となくなのだ。

 いつか、意識の外でそれをするようになれるといい。