0.02ミリのコミュニケーション

2011年7月13日、Twitterが日本語ハッシュタグに対応した。

そこから今に至るまでひっきりなしに生成されてはバズワードになっている系統のタグが「#きっとフォロワーさんが◯◯」等のタグだ。例を挙げると「#きっとフォロワーさんがヒトコト紹介RTしてくれる」や「#きっとフォロワーさんがイメージカラーを答えてくれる」「#きっとフォロワーさんがえげつない質問してくる」等であり、枚挙にいとまがない。要するにそのタグをつけてツイートすることによってフォロワーの抱いている自分のイメージを知ろうとしたり、自分に対して質問を求めてみたり。亜種では「ふぁぼってくれる」「RTしてくれる」等も見られる。

自分が他者にどう見られているのか。

程度の差こそあれ、これが気にならない人はほぼ存在しないだろう。しかし、自分から積極的に「ねえ私のことどう思ってる?どんなイメージ?!動物で例えると?!色は?!性格ってどうかな?!」等と聞くのは憚られる。何だか下品だし、自己主張が激しい人みたい…と躊躇する人が大半ではないだろうか。

聞きたい。でも聞けない。

その聞きたいという欲望を「流行っている」「ハッシュタグという"形式"にのっとる」「あくまで自分発信ではなく、自分はバズワードの一種を使用しただけにすぎない」などのごまかしの理由をつけ、安易に充足させてしまうのが「#きっとフォロワーさんが◯◯」系の日本語ハッシュタグだ。

で、だ。これ何かに似てるなぁ、と思ったら要は極薄コンドームだった。欲望を凄く薄い皮で包んだ感じ。でもね、超透けてんの。透け透けなんだよ。0.02ミリな感じがするんだよ。オカモト系ハッシュタグ

安易に欲望を充たすコミュニケーションをはかること。安易にセックスという充足を得ること。それを可能としてしまうツール。私は古いタイプの人間なのか、良し悪しではなく、それの氾濫にただただ戸惑い、そして少し憤っている。

別にゴム使うなって言ってんじゃないんだよ。でも、いつかは使わなくていいようになりたい、というのを個人的には忘れないようにしたい。「コミュニケーションごっこ」も「セックスごっこ」も、そこに安易な充足を感じてしまわないように。

「おねがい。助けて。理性が三日後から感情を殺しにやってくるの」

一昨日、自分が書いた記事の真面目さに自分で驚くばかりである。でも「ダイアリーは真面目に書かなきゃいけない気がする」とか平気で嘘ついてやがるな、アイツ。だってほれ

 

11/12(土) 一年前の自分の輪郭をなぞる

2011/11/12だった。ということは2010/11/12からちょうど一年経ったということで。なんだか虎舞竜が歌い出しそうな書き出しだが、なんでもないようなことが幸せだったとは思わない。

いつだって時の流れは私たちの想像以上にはやく、過去の自分の輪郭はどんどんなめらかなものになっていく。私はそのなめらかさを美しいとは口が裂けても言わないけれど。

12日の土曜日、一年前の自分がしていた話と同じ話を友人とし、一年前の自分の輪郭をなぞる機会があった。骨子の所の考え方は変わらないまま、沢山変わっている部分もあり。

本当はきちんとした文章にしようと思ったのだが、あまりにまとまっていない部分や考えるべき課題が多いためにまたもや箇条書き。

 

・アナログであることを恐れてはいけない

・感情がアナログであることを恐れてはいけない

・瞬間瞬間はきっとアナログだ。

・過去の美化・補正と理性の介入はニアリーイコール?

・変化と退化の違いはどこだろう

・他者と100%のシンクロが出来ない私たちは、ではどうするか

・例えば他者や自己をタグ付けしてコミュニケーションを安易なものにするような「省エネ」に対してどうして私はこんなに憤りを覚えるのか自分でもわからない

・安心へと向かう衝動をダメなものであるとして、抵抗し続ける理由が自分でもわからない。これはダダをこねる子どもが、段々とダダをこねている理由を忘れてダダをこねるという行動に没頭するような、手段と目的がすり替わってしまうのと同じかもしれない。そう考えると非常に恐ろしい。

・こういう時に思い出すのは「物事を単純化して現在を生き残ろうとする人たち」という言葉

・それに対して何故嫌悪感を覚えるのか、そして抵抗するのかを考えないといけない

・女性の方が「こうあるべき」という外部からの要請を強く感じているのではないか説

・(追記)誰のための生き辛さか

 

その他諸々、思い出したら随時追記。

 

自分がこの上なく頑固だということを改めて痛感。柔軟な存在でありたいと思うことと頑固に凝り固まった部分を維持したいという思いが何故か自分の中に同居している。ひょっとしたら私は何かとてつもない勘違いを根本の方でしているのではないかと疑いはじめた土曜日だった。

心を沢山動かすと、お腹が沢山減るのだなあ

さて。

「ダイアリー」から「ブログ」に移行して初めての記事が酔っぱらいながら書いてるってどうなの、と自ら思いつつも、酒を一口飲んでは少しキーボードを叩き、また飲んでは叩きを繰り返しながら「ブログ」なんぞを始めている次第である。

私がブログを作る際にはてなを選んだ理由は「ダイアリー」の方に書いた記事の通りなのだが、その「ダイアリー」の方も、ほとんど更新されない毎日が続いている。(だって真剣に記事書かなきゃいかない気がするんだもん。はてなダイアリーって)

そんなわけで、諸処の事情があり初めて見た「ブログ」の方もいつまで続くかは怪しいものであるが、とにかく毎日のことを少しでも書いてみようと思う。

 

11/8(火)

四条堀川、ROOTER×2で行なわれた「竹原ピストル独演会」へ。

11/5(土)放送だった「松本人志のコント MHK」のEDで歌っておられる姿を見て、おぉ、ここでもか!とテンションが上がったまま、ソロライブへ行ってきた。会場へは10分前に入ったのだが、その時には既に椅子はほぼ全て埋まっており立ち見もちらほら。私も一番後ろで、一人ビールを片手に立って参加。

竹原さん本人も「ソロライブはあれもこれもやりたいってなっちゃって、どうしても長くなっちゃうんですが…」とおっしゃった通り、アンコールを含めて約2時間半の長丁場。物凄く充実した空間に身を置くことができ、非常に幸せだった。

タイトルにもつけさせていただいたがライブ終了時に自分のお腹の減りを感じ、あぁ心が沢山動いていたのだな、と実感した次第である。

以下、心に残った箇所の羅列等。

・あの頃の俺より今の俺の方がよっぽどどこまでも行けるぜ!/『STAY FREE』

・なんもやってねーでやってらんねーはねーだろ/『みんなやってるか』

・「さよならバイバイや」/『フィッシュオン!』前のMC。幼い頃にお父さんに釣りに連れて行ってもらった際、海の遠くを指さして「あそこに落ちたらどうなる?」と聞いた時のお父さんの返答の一言。「さよならバイバイや」をあまりに怖く感じ、どんどん「じゃああそこなら?」「そこなら?」と指すポイントを近くしていくが、お父さんの返答は「さよならバイバイや」の一点張り。最後の最後、本当に近くの足下を指さし「じゃあ、ここなら?」と言うとようやくお父さんは「そこなら、助けてやれる…」と言ってくれた、との事。

・「これでやっと、この歌が一つ落ち着いた」/『復興の花』MC。3月11日の地震の際、ちょうどライブで福島を訪れていた竹原さんが、避難所で過ごした経験から出来た曲である『復興の花』。ミニアルバムの表題にもなった曲だが、少し前、3月11日のライブの振替公演の際に三河台小学校に訪れた時、この曲の入ったアルバムを事務員さんに渡し、「終わりというわけではないんですけど、これでやっとこの曲の着地点が一つ」と話しておられた。

・そろそろ彼のところに帰りなさい/『my dear』

・てめぇ表ン出ろ!そして愛を語ろう/『GURU×GURU』

・僕は触れられるものにしか救われたことがない 僕がやたらと君と手をつなぎたがるのはつまりそんな理由からさ/『風船ガム』

・今年は8月6日の精霊流しのBGMとして『女の子』を歌いに行かれたそうだ。

・カヴァーである『ファイト』と『浅草キッド』も歌っておられた。

・個人的には大好きな『リョウジ』、そして最後の最後に『Catch me if you can』が聞けて非常に嬉しかった。

 

というわけで、酔いながらちみちみと酒を飲んではキーボードを叩いてみたのでせっかくの「ブログ」としての初めての記事が非常に稚拙なものになっているかと思う。久しぶりに心が震える経験をしたのだが、それの一割をも伝える能力が己に備わっていないことに、ただただ爪を噛むばかりだ。爪おいしいよ、爪。

なにはともあれ、この場が今後共続いていくかどうかはさておいて、今日はここまで。