「おねがい。助けて。理性が三日後から感情を殺しにやってくるの」
一昨日、自分が書いた記事の真面目さに自分で驚くばかりである。でも「ダイアリーは真面目に書かなきゃいけない気がする」とか平気で嘘ついてやがるな、アイツ。だってほれ。
11/12(土) 一年前の自分の輪郭をなぞる
2011/11/12だった。ということは2010/11/12からちょうど一年経ったということで。なんだか虎舞竜が歌い出しそうな書き出しだが、なんでもないようなことが幸せだったとは思わない。
いつだって時の流れは私たちの想像以上にはやく、過去の自分の輪郭はどんどんなめらかなものになっていく。私はそのなめらかさを美しいとは口が裂けても言わないけれど。
12日の土曜日、一年前の自分がしていた話と同じ話を友人とし、一年前の自分の輪郭をなぞる機会があった。骨子の所の考え方は変わらないまま、沢山変わっている部分もあり。
本当はきちんとした文章にしようと思ったのだが、あまりにまとまっていない部分や考えるべき課題が多いためにまたもや箇条書き。
・アナログであることを恐れてはいけない
・感情がアナログであることを恐れてはいけない
・瞬間瞬間はきっとアナログだ。
・過去の美化・補正と理性の介入はニアリーイコール?
・変化と退化の違いはどこだろう
・他者と100%のシンクロが出来ない私たちは、ではどうするか
・例えば他者や自己をタグ付けしてコミュニケーションを安易なものにするような「省エネ」に対してどうして私はこんなに憤りを覚えるのか自分でもわからない
・安心へと向かう衝動をダメなものであるとして、抵抗し続ける理由が自分でもわからない。これはダダをこねる子どもが、段々とダダをこねている理由を忘れてダダをこねるという行動に没頭するような、手段と目的がすり替わってしまうのと同じかもしれない。そう考えると非常に恐ろしい。
・こういう時に思い出すのは「物事を単純化して現在を生き残ろうとする人たち」という言葉
・それに対して何故嫌悪感を覚えるのか、そして抵抗するのかを考えないといけない
・女性の方が「こうあるべき」という外部からの要請を強く感じているのではないか説
・(追記)誰のための生き辛さか
その他諸々、思い出したら随時追記。
自分がこの上なく頑固だということを改めて痛感。柔軟な存在でありたいと思うことと頑固に凝り固まった部分を維持したいという思いが何故か自分の中に同居している。ひょっとしたら私は何かとてつもない勘違いを根本の方でしているのではないかと疑いはじめた土曜日だった。